東神戸教会
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      2016年度メッセージ    横山順一牧師



20170326
メッセージ 『 図が高い、控えおろう! 』 マタイによる福音書17:1~13

 学生時代、鳥取の大山(1729m)に登って、かなりしんどかった。イエスが弟子3人を連れて登った「高い山」はいかほどのものだったか。山に慣れているイエスと違い、ガリラヤ湖の漁師だった3人はきつかったろう。
疲労困憊したあげく、主イエスの姿が変容したのを目の当たりにして高揚したペトロは、思わず「小屋を作りましょう」と叫んだ。
その6日前、イエスは死と復活の予告をなした。不安を覚えたペトロは主をいさめて厳しく叱責された。山登りは真の姿を見せるイエスの思いやりだったろう。残念ながらすぐにそれは理解されなかった。が、後ですべて分かったのだ。
神を直接見ることはできないが、誰かを通して垣間見ることは許されている。それを見て私たちは生きる力を与えられる。
6年前の東日本大震災の夜は美しい夜空だった。絶望の中に希望が置かれてあった。やはり神はおられるのだ。
 神の描く図は私たちの想像を超えて高く深い。その希望を見る一瞬は、諦めの終わりを導く。私たちの頭を低くし、控えて受け入れたく思う。

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20170319
メッセージ 『 仰げば尊し、わが主の恩 』 マタイによる福音書 16:13~28

 グラデュエートとは階段を登るという意味。卒業式はだから素敵だ。しかしそうはならない卒業式もある。
 悪魔の誘惑は、疲れて一人で孤独にいる時だけではなく、満たされている時にも起こる。
 風光明媚なフィリポ・カイサリアの地で、主から誉め言葉をいただいたペトロがそうだった。分かった、満たされたと思った途端に、誘惑に堕ちて、イエスを真に見ることができなくなってしまった。
 カイサリアからきびすを返して、いよいよ十字架への道を歩む決意をなしたイエス。それはペトロの一見良き返答に励まされてではなく、かえって人間の弱さを見つめられたところからスタートもの。言わば十字架へ向かうイエスの卒業式であり、それは下へ降りて行く歩みだった。
 ペトロへの厳しい叱責は、イエスの深い愛情の表れだったろう。私たちも弱さの上に教会を建てようと語られたイエスの思いを受けたい。何かをなすことより、ただただ感謝のうちに、これからの歩みを共に見たい。

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20170312
メッセージ 『 おまえのかあちゃん、でべそ? 』 マタイによる福音書 12:22~32

  「おまえのかあちゃん、でべそ」は今で言う「オルタナティブファクト(デマ)だ。
 カルト宗教によって人生を破壊されたEさんの証言。そこは義務感の世界だった。
 固い信仰を持ちたいとの願いは間違いではない。だが、信仰は神から与えられるもの。信仰生活は人の手に委ねられているもの。余地のない、義務感の信仰生活はゆがんでいる。時には、疑いすら大事な場合がある。
 イエスがメシアとして人々に受け入られて来た状況は、ファリサイ派や律法学者たちにとって、自らの宗教的権威を揺さぶられる由々しき事態だった。そこで「イエスの業は悪霊から」との中傷(デマ)を行ったが、誠に幼稚な言いがかりだった。悪霊同士がいがみ合うのでは、悪霊の支配など成り立たないからだ。
 それでもイエスが敢えて反論されたのは、病が悪霊によるなどの差別的偏見に傷つけられて来た人々を癒し励ますためではなかったか。
 Eさんは、神さまの目はあまねく全治を行き巡っている。下ではなく上を見上げたいと証言を締め括った。
 天も地もすべて神に包まれている。それは義務感とは別の、暖かく優しく、陽気な世界。終わりを始まりに変えて下さる方を信じたい。

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20170305
メッセージ 『 逃げるはマジ 』  ヤコブの手紙 1:12~18

 アーサー・ビナードさんは宮沢賢治の詩を用いて、戦争や紛争がある場に駆けつけてはならないと話される。 
 釜ヶ崎の仲間、生田武志さんから「カフカの階段」について教えられたこと。ホームレスになるまでに、幾つもの「排除」を受けながら、階段を一段ずつ下りるようにして、遂には野宿者となるのだ、と。
 それ故に、経済的なことだけが問題ではなく、自己否定を強いられ心に傷を負った人たちの、関係性(人間や社会との)を回復することが必要なのだ、と。東工大の上田紀行先生も、生きる意味の不況を何とかしなければ、と訴えておられる。
 レントにあって、改めて荒れ野の試練を思う。イエスが悪魔の誘惑に乗らなかったのは、弱者や他者と共に生きる生き方を選んだからだった。戦ったというより、選んだ。イエスの十字架と復活は「あなたは必要な存在」という命の関係性を回復する宣言だったと思う。
 この出来事があったからこそ、テキストの著者は良い贈物、完全な賜物はみな、上から、父から来るのだと語り得た。
 逆に命の関係性が壊されるところから逃げるのは正しい。命の関係性が回復されるところでは、力が与えられる。

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20170226
メッセージ 『 ア・ラ!ランド 』  マタイによる福音書 14:22~33

 宇宙飛行士が語る「地球に国境線はなかった」という言葉は重い。「土地は誰のものでもない」という農業Mさんの言葉も。
 テキストは海上を歩いたイエスの出来事。だがそのこと自体に意味はない。直前5000人の給食の出来事があり、群衆は王にしようとイエスを持ち上げた。
 その熱狂の世界からいっとき身を引くため、弟子たちを先に舟に乗せ、自身は山に登って祈ったイエス。
 その後、突風で苦労していた弟子たちのもとに姿を現したが、弟子たちは恐れた。一人ペトロが近づいたが、すぐ落ちた。
 イエスの持つ奇跡の力を信じ切れなかったという話ではない。イエスが共にいて下さる世界を容易く忘れてしまう弟子たち。にも関らず、イエスは「すぐ」声をかけ、手を差し伸べられる方だった。この方が既に私たちとともなる地平に立っている!
 「属する」という意識から、「所有する」意識に変わる時、共同性が排他性へ変質するという作家の指摘は鋭い。
 自分の力、人間の力にどっぷり浸かる弟子たち。そして私たち。一方で揺るぎのない世界を探し求めている。けれどもふと目を留めれば、私たちの足元に主の大地がもう与えられているのだ。

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20170219
メッセージ 『 みんながみんなが ええ言う 』  コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:1~10

 昨夏亡くなった吉野ゆりえさんは、平滑筋肉腫という難病を与えられ、幾度も手術を受けながら、視覚障害の方たちにダンスの指導を続けたプロの社交ダンサーだった。生前、「日本にサルコーマセンターを作る会」を立ち上げた。自分については「たまたま」と、淡々と言われた。弱い時に強いとはこういうことかと思わされる。
 パウロには「肉体のとげ」があった。それさえなかったらもっと精力的に活動できたかもしれない。が、イエスの言葉を与えられ、数々の現場の実証を通して、「弱さの中で発揮される神さまの力」を受け入れた。むしろ、とげがあったから、そうできたのだ。誇りとは、自分の内側から発するもの、欠点を気づかせるものである。
 ネガティブに思える挫折や苦しみは、神が掘ってくれた穴ぼこ。そこから自分や人生が見える、と上田紀行さん。
 確かに環境や課題は、みな同じではなく人それぞれだ。だが、その弱さの中で神の力が表される。そしてかけがえのない人生を知る。それは誰にも与えられた神さまの恵みである。それだけは一緒。そんな証しが幾つもある。信仰の先輩みんながええと言うそれを信じ、待ち、味わい、証しする一員に加わりたい。
 
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20170212
メッセージ 『 それがせんせい 』  テモテへの手紙一 4:6~16

 今を構成するものは、ただ過去の体験だけではない。「未来を志向する思い」は重要なパーツ。過去に捕らわれ協議を拒否する発言を聞いて、残念に思う。
 エフェソの教会に偽りの教えをなす教師たちが現われた。彼らは他者の行動に制限を加え、律法の遵守を迫った。
 それは、救いは神のみによると知らされ語って来たパウロにとって、許しがたい一大事だった。そこで、信徒の信仰を彼らから守るよう、テモテへ手紙を書き送ったのだった。
 パウロは、偽教師たちの言動を「俗悪で愚にもつかない作り話」と強い調子で非難した。個人的怒りではない。福音を根底から覆すものへの断固たる態度だった。
 私たちの周囲にも「先生」と呼ばれる人は多い。だが中身はどうか。一緒に未来を考えうるか。間違った時、誤り、修正を図れるか。教師への大事な問い。イエスはそうされた。故に私も自戒したい。福音を勝手に曲げてはならない。
 そもそも福音は教師のものでも、信仰者だけのものでもない。これからそれに預かる未来の人々を含めて、神から人間すべてに与えられたものだ。それ故に、真の先生たるイエスに聞き従いたいと思う。
 
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20170205
メッセージ 『 違いが分かる人になりたし 』  ローマの信徒への手紙 1:8~17

   哲学者の鷲田清一さん(現・京都市立芸大学長)が、今の日本は老人と子どもの国になってしまった、と書いておられる。
 私自身、思い当たる節がある。成熟したクリスチャンを目指しながら、忘れたり、勘違いしているものがあるのではないか。
 パウロは「福音を恥としない」と語った。福音とは何か?その大元にはイエスの十字架の出来事がある。それは意識しなければ、惨めで空しい出来事だ。
 だが、私たちはその十字架の故に救われたのだ。しかしいつの間にか、自分の固くなさやプライドが置き換えられ、出発点を忘れてしまっている。
 解放劇を通して、劇の意味を考えるようになった。それはまさに「解放されること」だった。
 筋道を学ぶということ。それを学んだなら、失敗しても、またそこで始めることができる、と一人の牧師が語った。
 福音を恥としないとは、カッコつけないこと。つまり失敗せずひたすら歩むことではない。むしろ失敗を恐れないこと、失敗した時、そこからまた解放されることだ。
違いが分かる(信仰者)人になりたい。

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20170129 『 大声ダイヤモンド 』  マタイによる福音書 21:12~17

 アルノ・グリューンは、「従順な人間が観念的になり、自身の行動に責任を感じなくなる。歴史の中で常に従順の名において残酷な犯罪が行われて来た」と書く。
 私自身の家庭環境にも、従順を強いる父権主義を思い出す。
 さて、テキストは神殿で暴れたイエスを描く。普段の温厚な人柄を覆す出来事。商売人を追い出し、台や椅子をひっくり返した過激な行動だった。本来、彼らは公認された商売だった。
 彼らにはイエスの行動が理解できなかったが、身体の不自由な人たちには分かったろう。彼らこそ最も癒され、救われるべき存在だった。だが、忘れ去られていた。
 その一部始終を見ていた子どもたちが「ホサナ」(今、救って下さい!)と声を挙げた。この叫びこそ大声ダイヤモンドだった。
 湯浅誠さんは「私たちはどんな悪政にも黙って付き従う羊の群れではないと示さねばならない」と書いた。MITのダワー教授は「国を愛することが、人々の犠牲に思いをいたすのではなく、なぜいつでも国家の行為を支持する側につく事を求めるのか」と。
 イエスは「私は良い羊飼い」だと語った。そして彼こそは羊飼いでありながら、人々(羊)の側につかれる方だった。蔓延する排外主義の時代、 私たちも「ホサナ」と大声を挙げる者でありたい。

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20170122  堀剛牧師/伊丹教会牧師
メッセージ 『 神にゆだねる生き方 』  ルカによる福音書 5:1~11

説教者プロフィール
1980年同志社大学院修士課程修了、1989年イェール大学大学院卒業。
四国学院大学文学部教授、京都大学こころの未来研究センター研修員等を経て、
現在 伊丹教会牧師、NCC宗教研究所研修員。

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20170115  梅川正太神学生
メッセージ 『 タッチ 』  マタイによる福音書 8:1~4

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20170108
メッセージ 『 フアンからファンへ 』  イザヤ書 61:8~11

  テキストには「貧しい者への福音」と小見出しがつけられている。この「貧しい」とは、経済的なものより、宗教・精神・倫理的に「抑圧されている」という意味。
バビロニアからイスラエルへ帰還した民が見たものは疲弊しきった故郷の現実。そこに干ばつも重なって、あらゆる苦痛に襲われることとなった。そういう「抑圧された」人々に向けて語られた神の言葉が、61章である。そこでは「新たな歩み」が呼びかけられた。新たな働きをもって用いる、と。
創作四字熟語やパロデイーに込められたユーモア精神に、批評だけに終わらぬしたたかさを思う。新しい歩み・働き・出会いが肝心。
イエスという名は「インマヌエル」と呼ばれると天使は告げた。神我らと共にあるとの、繰り返しの励ましが私たちを新たな歩みへと押し出すのだろう。
この一人子を遣わされた神の思いを愚直に受け取り、2017年の歩みを始めたい。

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20170101
メッセージ 『 お正月には顔上げて 』  マタイによる福音書 2:13~23

  お正月は、何となくキリリとした空気が漂っている感がする。人工的ではあるが。
福音書の記述を合わせ読みすると、ヨセフ・マリア夫妻は、イエス出産後一か月くらいはベツレヘムに留まっていたろうと思われる。その間、ずっと馬小屋だったのか・・・。
かつて幼稚園で毎年動物園に遠足に行った。普段匂い慣れない動物の匂いに、園児たちは騒いだけれど、牛・馬が普通に家の中にいて育った私には、懐かしい匂いだった。
現代日本では、「匂い」が「臭いもの」として敬遠される。
本来なら適した場所で出産したかったであろうヨセフ・マリア夫妻。しかし神は馬小屋をその場とされた。
イエスの誕生時、ヘロデ王による幼児大虐殺が起こった。忘れてはならない現実だ。
新年に当たり、平安を願う。その一方でこの世の課題を忘れてはならない。イエスとは、「神は救いである」という名だ。顔を上げ、神を仰ぎ、現実をしっかりと受け止めたい。

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20161225 Merry Xmas!
メッセージ 『 鮮度は続くよ、どこまでも! 』  ミカ書 5:1~5

   31年ぶりとなった11月27日のバザー。大変楽しく行えたが、大変なのは献品への値段付けだ。それぞれ持っている情報や価値観が違うので、担当が多いとなかなか決まらないもの。
 クリスマスにあたり改めて、「イエス」の価値を思う。二千数百年前、ミカは救い主は「いと小さきベツレヘム」から与えられる。彼こそは平和であり、地の果てまで力が及ぶと預言した。
多くの人が抱いている一般常識とは正反対だった。ギデオンにしても、サウルにしても、自らの小さい部族出身を恥として、神の選びを躊躇した。のちに弟子となるナタナエルは「ナザレから何の良きものが出よう」と侮蔑した。
しかし神の選びは、まさに「小ささ」にあったし、この世的な力ではない「平和」にあった。それがイエスにすべて体現された。
彼こそは、本当に神の力と支えを願って、友と生きた人だった。そこに繋がる限り、イエスの価値がなくなることなどない。
毎年与えられるクリスマスを通し、毎回新たにされる私たち。イエスの鮮度は落ちない。来たる2017年もこれからもずっと、イエスに繋がり、新しくされつつ歩みたい。

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20161218
メッセージ 『 大きらい、でもありがとう 』  マタイによる福音書  11:2~10

 「大好きじゃない」けど「ありがとう」と感謝する心情が人間にはある。
ジャン・ジオノ作「木を植える人」。とてつもない作業をたんたんと老羊飼いは行う。しんどいから大好きじゃない生き方だけど、何かを示される。やっかいだが、やがて分かる。
 ヨハネはイエスに使いを遣り「来るべき人かどうか」を確かめさせた。ヨハネの置かれた状況は厳しかった。そして働き(人生)について、つい揺らいでしまった。
 与えられたこと以上を望んでしまったのだろうか。イエスはヨハネを最大限に評価しつつ、それぞれ託された働きについて語り伝えた。羨んでも、あきらめても仕方がないのだ。そこから始まる歩みがあるのだ、と。
 神は必要なところに必要を満たされる。イエスの存在はヨハネにとり、敬遠したいが気になるものだった。思いは互いに十分伝わっただろう。真実を突かれ、受け入れがたかったとしても。
 18世紀、アメリカに本当に木を植えて回った人がいた。ジョン・チャップマン、通称ジョニー・アップルシード。ジョンとはヨハネを意味する。
 私たちにもそれぞれの働きが与えられる。まずはイエスというリンゴの木を心に植えたいと思う。大きらい、でもありがとうの世界が確かにある。

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20161211
メッセージ 『 君に追い風が吹く 』  ルカによる福音書 1:46~55

ミクロネシア・ポナペワークキャンプのリーダー、荒川義治牧師は、日本の非日常を味わえる場所と時だと言われる。
もちろん、海外に出なくてもそのような体験はできる。教会は本来そういう場所。だが、しばしば私たちは日常に落ち込んでしまう。
故郷ナザレで語ったイエスは、こいつは「たかが大工の息子」と揶揄された。彼らは表面の知識に満ちていた。何も持っていない自分を嘆く事もあるが、実は持ちすぎている自分に気づかない事の方が私たちには多い。
ナザレの人々は、持ちすぎのためにイエスを切ってしまった。同様の事が今も少なくない。持ちすぎて、肝心な事が阻害されてしまう現実の悲しみ。この現実に向き合いたい。
クリスマスは、中身をもう一度見つめる時だ。イエスが、切り取り、新たに取り結んで下さる恵みを、共々に喜ぶ時となしたい。

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20161204
メッセージ 『 君に追い風が吹く 』  ルカによる福音書 1:46~55

 8年前ガンで入院中、リハビリで歩くのはなかなか大変だった。しかし同じく開腹手術を受けた他の患者さんたちと出会うことが、回復への後押しとなった。
宮平望先生は、イエスは精神病或いは精神病性質があった、という大胆な予測を述べられている。そうであればこそ、精神的病いを患った人々と共に生きることができたのだ、と。
うつ病を抱える斉藤登志子さんは、入院生活の中で出会った人々の中に癒しと安心感を感じた。中でも「優子さん」の中にイエス様を見た。そのイエスはゆうこさんと共に歩み、同じように傷つき、愛されたいと願っておられる主であった、と。
ルカ福音書に記されるマリアの賛歌。「出所をまったく失った暗闇で、母マリアの経験したことは、神がマリアとその子の救い主として行為されたことだった」(絹川久子)。
私たちは元気に生きたい。そのために確証を求める。しかし実は神の時間は既に私たちの中に流れ込んでいる。私たちと共に歩まれるイエスがおられる故に、必ず後押しされる。その降誕を喜んで待ちたい。

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20161127
メッセージ 『 この未知はいつか来た未知 』 イザヤ書 51:4~11

例えば毎日の犬との散歩の中にもあった小さな楽しみ同様。マンネリに思われるようで、毎年訪れるクリスマスから、毎年新しい喜びを与えられる。

 テキストは、そのような小さな幸せが奪われたイスラエルの民のバビロニア捕囚が背景にある。半世紀のうちに、もはや帰還の望みは消え失せた。諦めの悪循環。東日本被災者、とりわけ原発事故被災者の無念が重なる。

 その諦めの民にかけられた神さまの声。真実はわたしから出るのだ、と。恐れるな、と。

 神さまの長い時間から見れば、昨日・今日・明日は同じではなく、恵みに満ちている。今日の痛みと悲しみは、明日、喜びと楽しみに変わると信じたい。


 「はじめは / 同じ道を散歩するのが / つまらなかったが /
だんだんと / 同じ道に親しむと / 同じ道を歩くのが楽しくなった /
同じ道でありながら / 毎日何か新しいものを見せてくれる /
それが新しい道でなく同じ道であることによって / 楽しいのであった /
今朝は / アレチノキクのはびこった寂しい踏切に /
ちんちんちんとベルがひとりで鳴っていて / 楽しかった」

    高見順

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20161120
メッセージ 『 幸せになるために 』 マタイによる福音書 25:31~46

 「セレンディップの三人の王子」の物語から「セレンディピティー」という言葉が生まれた。脳科学者の茂木さんによれば「偶然の幸福に出会う能力」の意。
テキストはイエスのたとえ話。かたや王から祝福され、かたや罰を受ける人々。祝福される人々は、のちの結果を何も知らず、予想外の人々との出会いを大切にした。罰を受ける人々は、敢えて打算のうちに行動したのだった。
偶然の幸運の出会いを与えられるのは神。その出会いを生かすために、「行動し、気づき、受け入れる」三つの要素を磨きたい。そのために私たちには信仰生活がある。そこでは偶然が必然に変えられてゆく。私たちは「必然の幸福に出会う能力」を耕す。

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20161113
メッセージ 『 一生 お願い 』 マタイによる福音書 5:33~37

 木安茜さんは「障がいの有無にかかわらず、生命はみんな尊い」と娘の事例を挙げて訴えられる。7月に起こった事件を思い起こし、賛同する。
 テキストは山上の説教の一部分。しかし「誓うな」との項は、マタイだけが記したもの。
 前後に、到底実行不可能(ミッション・インポッシブル)と思われるお勧めや命令が相続いている。当時できない(しない)のに、より大きなものに誓う人たちが大手を振るい、その前で小さくなって生きる喜びを失っていた人たちがいた。
 できる、できないではなかった。神に対しても、この世に対しても、はっきりと然り、否を語れと、イエスは励まして下さったのだった。違う表現で言うなら、「命に寄り添うかどうか」だった。
 偉ぶる人々が台頭する世界。力を振るい、一掃したい思いにかられる。が、イエスはそうされなかった。不可能な命令を語りながら、自分自身が「命に寄り添う」場に立ち続けた。
 「一生のお願い」ではない。私たちもイエスの問われた場に立ち続けるため、この方に、神に「一生お願い」するのである。

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20161106
メッセージ 『 賭けの上のポニョ 』 創世記 13:1~18

 「世界一短いラブレター」は、「?と!」この二文字のやり取りの物語である。そのモデルは、レ・ミゼラブルを書いたユーゴーと出版社のやりとりにある。二文字の間に込められた深い思い。ユーゴーは人間と神の「?と!」の応答を小説にも込めた。その「?と!」の深い思いを証ししているのが、神からの世界一長いラブレターである私たちの聖書だ。

アブラムとロトは別れて暮らすこととなった。互いの財産が増え、両集団の争いが起きたからだ。そのいさかいを避けるために、アブラムは行く先の選択権をロトに与えた。結果、邪悪の町ソドムを含めた東の地をロトは選んだ。お互い無意識に行った事だったが、神はアブラムを顧みられた。

人気アニメ「崖の上のポニョ」。偶然コースケ少年と出会った魚の子ポニョの物語。コースケ会いたさのみでポニョは走る。そして遂に人間の子になるのだ。突拍子もない「賭け」だ。

ただ私たちの信仰も一種、そのような賭けである。確証がないものへの問いかけの歩みである。だがその「?」を聞かれる神から「!」の応答が必ず与えられる。信仰の問いかけに立つ者を神はお忘れにはならない。

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20161030
メッセージ 『さよなら・いつか』  ヨブ記 38:1~18

1959年6月30日、当時の沖縄・石川市街に米軍のジェット戦闘機が墜落、パイロットは脱出したが、機体は宮森小学校に突っ込み、17名死亡の大惨事となった。この事件の舞台「フクギの雫」のDVDを観る時、一人の命の尊さを思うと共に、「いつになったら」と叫ぶ小学生たちに、頭を垂れざるを得ない。あれから57年。
 テキストはヨブ記。家族・財産を失い、自身も重い皮膚病を患って苦しむヨブの元に友人たちが訪れる。3人目は、「ヨブの苦しみは神秘的だが、いつの日か謎が解ける」と語る。それでも自分の正しさを主張するヨブに怒った4人目は、「 お前は神さまの知恵を探ろうとしている」と非難する。いずれもヨブの苦しみに寄り添わない的外れな言葉だった。
 「嵐の中から」神さまがお答えになる。友人たちの傲慢を指摘された後、ヨブ自身に答えるよう、問いかけが続く。それらは必要な時に一つ一つ必要を満たされた神さまの誠実さの証しだった。
 「いつか」は曖昧である。今を生きるよう神さまは教えられる。それ故に、今を叫ぶ叫びに「いつか」を言ってはならないことを同時に知らされる。
  さよなら・いつか!

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20161023
メッセージ 『神は長~いお友だち』  マタイによる福音書 10:26~31

埼玉県のある教会の役員さんが書かれた文章。「激動の時代を歩んで来たが、少しも不安を覚えず、むしろ楽しさを覚えた」と。毎年激動の時代が続いている印象を持つ現在・・・。
イエスは弟子たちに「恐れるな」と語られた。それは迫害を念頭に置いての言葉であり、事実、キリスト教徒は常に迫害の中を生きて来た。その意味では、不安のない時代などなかった。
石井さんの生きる原動力は、教会が楽しいところという大前提と、信仰を共にする仲間にあった。
イエスは弟子たちに向って(ユダさえも)友と呼ばれた。まさに傍らに共にいて下さる方だった。
神さまは一人子を通して、私たちの友であることを表したのだ。髪の毛一本までも数えられているほどに私たちは覚えられている!神こそは聞いてくれる存在。
この神が一人一人の人生と向き合い、長い付き合いを重ねて下さるとすれば、激動の時代にあっても、きっと私たちは支えられ、希望をもって歩んでゆけると信じる。

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20161016
メッセージ 『わたし祈って増す』  マタイによる福音書 7:7~12

 使徒言行録9章に記されるアナニヤとパウロの物語。お互い求めていた訳ではなく、むしろ友だちにはなりたくはない関係。でも神さまの命令を受け入れて、乗り越えて行動した時、二人の間に思いがけない新たな関係が生まれた。
 「求めよ」とイエスは言われた。聞かれない祈りがたくさんあることを私たちは知っている。求めても空しいという思いがある。
 一体何を求めるのか?それはお金で買えるようなモノではない。「自分がして欲しいと思うことをせよ」とイエスは語られた。
 2年ごとの教団総会。ボランティアが懸命に状況をパソコンで発信している。空しいとも思える総会で、しかしそれを読むと、力が沸いてくる。出席できない友への思いを感じるからだ。
 アナニヤらは求めた訳ではなかったが、神さまのなさる業をしかと味わった。
 求めよ、とは新たな人間関係のことではなかろうか。祈り、祈られることで増し加えられるものが確かにある。

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20161009 神学校日・伝道献身者奨励日
メッセージ 『この世に生きるということ』 村上みか牧師    マタイによる福音書10:34~39
1961年福岡県生。
神戸大学法学研究科博士課程前期課程、同志社大学神学研究科博士課程前期、バーゼル大学神学部博士課程修了。
神学博士(Dr.theol)。
日本基督教団岡本教会担任教師、すいす・バーゼル市エコランパト教会専任オルガニスト、名古屋学院大学専任講師、助教授、
東北学院大学文学部教授等を経て、現在、同志社大学神学部教授。
著書:『ヨーロッパ宗教改革の連携と断絶』(共著、教文館)
『牧師とは何か』ほか。(共著、日本基督教団出版局)




20161002
メッセージ 『運命に克つ方法』  ヨハネによる福音書 11:17~27

 この時代になっても「占い」はすたらない。けれど「頑張れば変えられる運命」って何だろう。 
 ラザロ重篤の報がもたらされたが、イエスは即座に行動されなかった。マルタはそれをなじった。気持ちは理解できる。
 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のため」との言葉がイエスの行動のカギだった。
私は「復活であり、命である」とイエスは現在形で語られた。残念ながらマルタには理解できなかった。
 絵本「雪とパイナップル」を通して、最愛の人を失っても、なお人は感謝できると著者;鎌田實医師は述べている。希望はあるものではなく、つくるもの。幸せはそれを目指すプロセスの中にある、とも。
 私たちは神の恵みのうちに既に置かれている事をイエスは伝えようとされたのだ。それは希望を作る業だった。
 「人間が何もしなければ運命が襲いかかる」とチェスタートン。それは足下を掘ること。イエスの言葉「かけがえのない命」に気づいて、希望を作ること。
 運命に抗おうとする私たち。でも実はその方法は案外に近く、楽なものだった。「運命」ではなく、それをこそ信じるものでありたい。

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20160925
メッセージ 『必要なものは何故か地味』  ローマの信徒への手紙 11:33~36

 リオ・パラリンピックのメダルには素敵な工夫がなされていた。また、結果に関わらず健闘を振り返る選手たちに、それこそが「ご褒美」と教えられた。

「目を覚ましなさいと言われるが、それで主人だと分かるのではない。主人が戸を叩いて、扉を開いて初めて分かるのだ」と渡辺信夫牧師。
 テキストにあるのは人間とははるかにかけ離れた神さまの富、知恵、知識=(神さまの力)への賛美である。
 例えば私たちは暴力団など消えてなくなれと願うが、アウグスティヌスが「神は人間の弱さからも善を生ぜしめるほうが良いと考える」とあるように、事実そのような回心を起こされる方だ。
パウロ自身がそのようにして導かれた。
 釜ヶ崎に40年以上住む水野阿修羅さんは、「悪いこともあるが、ここには競争をしないで生きようとする人たちがたくさんいる」と語られる。

 目を覚まし、懸命に神を受け入れようとする私たちだが、そうではなく神さまが私たちを受け入れて下さるのだ。
 弱さを用いられるのが神さま。競争しない生き方はご褒美。その神さまの力によって、本当に必要なものは地味だと気づきたい。

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20160918
メッセージ 『固い絆に想いを寄せて』  ヨハネによる福音書 10:31~39

 受験勉強でお世話になった二人の牧師のうち、小笠原亮一先生は、幼子のような暖かい方だった。
 テキストは宮清めのお祭りの最中起こった出来事。ユダヤ人たちが石をもってイエスを打ち殺そうと詰め寄った。イエスが自分を神としているとの理由だった。
 ただ事ではない緊迫の事態だったが、イエスは落ち着いて答えられた。自分は神ではなく、神の子なのだ、と。そこには不思議な静けさと平安が感じられた。神さまと固く結ばれた絆が見える気がする。
 自分を神にしているとの批判を、北村牧師に対してなしている人がいる。一方的に断罪する有様は、どちらが自分を神にしているのかを明白にする。
 ウィリアム・ウィリモン牧師は、信仰の成熟について文章を書いている。幼子のままのような自分中心・自己中心の信仰では駄目だ、と。
 神とイエスの固い絆に私たちもつながって、信仰を成熟させたいと願う。

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20160911                       
メッセージ 『あなたが気づけば マナーは変わる』  ローマの信徒への手紙7:1~6  

 自分以外のものに関する想像力がつけば、安直な物語が恥ずかしくなると、一人の元書店店長。
 テキストには「結婚の比喩」とあるが、内容は存外に難解。が、要は救いは律法によるのではないということ。霊に従う新しい生き方の提示である。
 当時は律法を守ることが神に喜ばれることだったから、守れなければ即、祝福に与かれないこととなる。女性はしばしば断罪された。
 ヨハネ福音書8章の「姦通の女性」の記録。倫理的・道徳的な話ではない。それが理解・支持されるのに1200年かかった。イエスは女性に「あなたを罪に定めない」と宣言された。それより「永遠の命に生きよ」と。
 マナーとは通常、作法や礼儀と解されるが、本来は「人間としての在り方」を指す。
 イエスはそれを神から学んだ。手を(体を)動かし、関わりを作ること。なくてもいいものを考え、要らないものを捨てよう。そのことに気づいたなら、マナーは変わるのだ。
 限りあるものが、限りのないものを受け止めることはできない。限りないものが、限りあるものを受け止めることができる。限りない方に従いたい。 

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20160904 ☆振起礼拝☆
メッセージ 『教会へ行こう!PAX』
エフェソの信徒への手紙 3:14~21

2年に一度の神学協議会に出席して、かつては思いも寄らなかった方々たちとの同席を不思議に思い、かつ喜んだ。
テキストの著者は、神さまの計画がどのように実現するのかを解いていると述べる。パウロの人生が全く予想外の展開を見せたように。
さらに、信仰により心のうちにキリストを住まわせ、主の愛の広さ・長さ・深さがどれほどであるかを理解し、満たされるようにと著者は祈る。

私自身、そもそも牧師となること自体が予想外だった。人の知識を越えるものが確かにある。
かつて「学校に行こう!MAX」というテレビ番組があった。その英語題字は「グルーヴィングアフタースクール マックス」であり、グルーヴィングとはかっこいい!という意味だった。放課後が最大限かっこいい。本体のあとにできるものの素晴らしさを描いた番組だった。
そもそもグルーヴィとは、溝を刻むという意味。イエスが心のうちに溝を刻まれる。そして主の愛に根ざし、そこにしっかりと立つ者としていただこう。

新しい季節だ。愛の学校である教会に、集おう。そこは平和が立ち上がる場所。
教会に行こう!PAX。

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20160828 ☆信徒奨励☆ 今村 徹さん
奨励 『振り返るとそこに』
使徒言行録 2:1〜11

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20160821 ☆信徒奨励☆ 中川永美子さん
奨励 『つながる』
テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:16~18

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20160814 ☆信徒奨励☆ 大澤 瞳さん
奨励 『立ち止まってみる』
マタイによる福音書 18:1~5

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20160807 ☆平和聖日☆
メッセージ 『ようこそ!君は礼拝のある星に生まれた。』
コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:1~9

幾つかの教会の礼拝に出席して、立派で快適な会堂に、出席者がまばらな状態を何とももったいなく感じた経験がある。姜尚中さんの分析と意見では、「戦後の日本は宗教と政治に向き合うことを避けて来た結果、今限界に来ている」とのこと。伝道が進まないのは無理もない。
 コリントの教会に起きた幾つもの問題(本テキストでは指導者について)。パウロは、それら一つ一つに具体的にアドヴァイスを送るのではなく、教会の本質を語ることで改めて彼らの目を覚まそうとした。
 本質を語ることは、真実で強い力となる。まさに「避けて来た」ことかもしれない。
 心と思いを一つに、と私たちは祈る。それは思想や行いを同じにすることではなく、違いがあることを互いに受け入れるという意味での一致である。それが神のみ心だ。
 私たちにも問題は山積み。だが神は傍観者ではなく、当事者として私たちを招かれた。信仰することが問題の解決策ではない。
 礼拝は繰り返し、その神の招きを確認する場である。差し伸べられた神さまの手を覚えるように。
平和を作る器として立つように。

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20160731
メッセージ 『今度こそチェンジ』 ヨハネによる福音書 7:1~9

イエスの兄弟たちがやって来て、注文をつけた。しかし実は世間体を慮ってのことだった。
その方が強いし、安心だからだ。だがそれは世間の言葉で語ることであり、自分の言葉で語ることではなかった。
フランクルは「我々が人生の意味を問うのではなく、我々自身が問われた者として体験されるのだ」と述べた。
イエスは兄弟たちの冷たい批判・非難に対し、「あなたがたの時はいつも備えられている」と語った。この「時」とは神さまの時間・カイロスである。
それは、自分で考え、自分の言葉で語る生き方への促しであり、問う者から問われている者への転換を意味していた。 
オバマ大統領はかつて「チェンジ」を繰り返した。変わろう、変えようという呼びかけ。この世的には残念ながら大きく変わることはできなかった。しかし終わりではない。
イエスの言葉は、「変われるよ」との促しだった。問われている者へ。これに気づく事が信仰によるチェンジ、悔い改めである。
平和を祈り、平和を作る人でありたいと願います。

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20160724
メッセージ 『いっぱい食べて小さくなあれ』 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11:23~26

 ドラえもんの秘密道具のうち、スモールライトが欲しい。モノを小さくすることができたら、解決・改善する課題が幾つもあるだろう。
 コリントの教会は、人種も身分も信仰の表現も様々な人たちで対立していた。中でも主の晩餐を思う食事会(原語はアガペー、愛餐会の語源)。
 豊かな人々が先に飲み食いし、貧しい人たちの居場所がない有様にパウロは義憤した。そして根本を思い起こすよう手紙を書いた。主の食事会の根本とは、主イエスの死を告げ知らせることにあった。
 それは十字架が何であり、誰のためかを思い起こすこと。ダマスコ途上で目を見えなくされたパウロは、力や知恵に頼る生き方を転換させられた。それは主の前に小さくされる出来事だった。
 スモールライトには、元に戻ってしまう欠点がある。イエスの光は繰り返し照らされる。私たちは己を、心を小さくしてみ前に立ちたい。いっぱい食べて小さくされる、その歩みを感謝したいと思う。

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20160717
メッセージ 『失敗より怖いものあり』 ヨハネによる福音書 6:16~21

 私たちは想定外(予想外)の出来事に恐れや不安を抱く。
 テキストの舞台はガリラヤ湖上の舟。天候の急変は想定の範囲内。それより弟子たちが恐れたのは、湖上を歩いて来たイエスだった。
 が、著者はそれを何のために記述したか。奇跡の報告ではない。「わたしだ。恐れることはない」と弟子たちに語りかけたイエスの言葉にこそ意味があった。
 ストレスは通常溜め込まないように指摘されるが、大切なのは「緊張をどう処理するのか、その適切さ」だ(向谷地生良)。ストレス自体を否定する必要はない。
 過剰に不安に陥る時、生きづらくなり、諦めが覆う。終わりを意識するようになるものだ。それこそが恐い。
 主は、そうではなく「始まり」を告げ知らせた方。「恐れることはない」とは、救いもまた私たちの想定外の出来事の一つだと言う事。
 ストレスの出来事はどうしてもある。その時私たちは途方に暮れる。が、イエスからの励ましが与えられるが故に、途方に暮れながらも、夢と希望を持てるのだ。

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20160710 ☆部落解放祈りの日☆
メッセージ 『悲劇と喜劇は神一重』 使途言行録 27:33~44

 例えば地震を通して、人生の悲劇と喜劇は常に紙一重だと思わされる。
ローマに囚人として送られることになったパウロ。予想もつかぬ悲喜こもごものドラマがあった。
当時、秋から春にかけての地中海の船旅は命がけであり、時には何ヶ月もかかる大旅行だった。パウロの乗った船も暴風に襲われて14日も漂流することになる。
船では船員が逃げ出そうとしたり、漂流だけでない危機が起こるが、そんな中で「守られる」とのお告げを受けたパウロは、乗員を集め食事を勧める。
人種も立場も違う276名からの人間が、その食事を通して一つにされ、結果彼らは無事マルタ島にたどり着く。
何か特別なことがなされたのではない。神が共におられることを信じたパウロの言動が、事実そのように皆を導いた出来事だった。
そこに神が共におられる、そのことを信じるかどうかで、悲劇のような出来事が大切な現実となる。神による意味づけ。それを信じるか、信じられるかが問われる。現代の私たちもまた。

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20160703 
メッセージ 『愛を知らなければ解けない謎』 ヨハネによる福音書 5:31~36

 以前、前大阪市長は「平成の伊達成実」と期待する旨の小学生の投書があった。それは敵が多くても気にしない点を評価するものだった。そういう政治家が昨今増えている。
 支持は自由。だが、評価の理由はおかしい。違う意見を聞かないことが、リーダーの資質ではない。それどころか、聞くことそれこそ最も肝心な資質ではなかろうか。
 テキストは「イエスについての証し」。つまり「救い主とは?」との問いかけ。ただし、それはイエス自身の証しである。まず「自分自身についての証しではない」と語られていることは大変重要ポイントだ。
 私たちは救い主のイメージを、どうしても見かけ上、この世的観点で作り上げてしまう。
 一番の中心を見つめなければならない。バプテスマのヨハネはイエスを証ししたが、部分的なものに過ぎなかった。
 イエスによる証しは、ヨハネを超える。それは神の愛についての証しだった。イエスはプロの祭司でも、リーダーでもない。言うなればアマチュア。だが、「愛する人」との、アマチュアの最も大切な意義を擁するアマチュアだった。
 救い主とは何者であるか?この謎を理解するために、イエスが語られた神さまの愛について
繰り返し聞いて行こう。

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20160626
メッセージ 『そうか、もう君はいないのか?』 使徒言行録 9:36~43
 
 作家・城山三郎さんの遺稿集「そうか、もう君はいないのか」には、先に召された容子夫人への深い思いが込められている。
 テキストはタビタのよみがえりの物語。ちょうど近隣の町にいたペトロがタビタの死を悼む人々によって呼ばれた。
 ペトロの元に集まったのは、やもめたちだった。彼女たちは泣きながら、生前タビタが作ったおびただしい下着や上着を見せたのだ。
 それは、タビタがどんなにやもめたちを愛したか、その愛の行いの故に、やもめたちの大きな希望であったかを、十二分に表していた。
 この心情にペトロは深く同情し、心動かされ、祈ったのだ。そして神はその祈りを聞き入れられた。彼女たちが新しく生きるためだった。
 死は悲しい別れだが、すべての終わりではない。
 神さまが覚え、とりなし、次に続けて下さる。イエスの生涯がそれを証ししている。もういないのではないのだ。

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20160619
メッセージ 『外野の夜明け』 使徒言行録 13:1~12

 川上牧師の言葉を通して、隅を照らす言葉や役割があることを思う。
 第一回の伝道旅行に出かけたパウロとバルナバその最初の地キプロス島には、魔術師がいて総督をたぶらかそうとしていた。
 パウロははっきり彼と対峙し、叱責の言葉をかけた。それは魔術師を憎悪するというより、諭す言葉であって、彼もまた照らす人として用いられたのだった。
 「聖霊による」という表現がテキストに3回登場する。決してパウロたち個人の思いや算段によって行われたのではない事を示している。
 照らされる時、自分ではみ得ないことがらさえ、見えるようになることを、エリザベス・ディキンソンの詩から教わる。
 総督はパウロの言動を見て、背後にあるイエスの教えに驚き、信仰に入ったという。
 主の福音が語られるところで、課題が明るみに出され、変革のきっかけとなって行く。それは生前、イエスが出会われた人々に起こされた事と同じだった。
 普段は内野しか見ない私たち。が聖霊の照らしがある時に、外野の存在を知る。主の信仰は、私たちの思い込みを打ち砕き、新たな道筋を示す。
 外野の夜明け!

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20160612
メッセージ 『酸っぱいは成功の素』 使徒言行録 2:22~36
 
 長谷川義史「おへそのあな」は、温かく希望の詰まった絵本だ。
 今日のテキストはペトロの説教。これは聖霊が与えられた後、初めて行った説教だから、いわば教会初の説教とも言える。
 ここでペトロは、まずイエスを十字架で殺したのはイスラエルの人々だ、と驚きの宣告をなした。だが、言いたかったのはその次。神は「このイエスを復活させられ」(24節)、「あなたがたの主となさった」(36節)と続けた。これを聞いた人々は大いに心を打たれ(37節)、3000人が仲間に加わった(41節)という。
 本来、自分こそ主を見捨てた存在。ペトロには深い失敗の記憶と、なお赦され用いられる感謝が満ちていたろう。
 創立75年を迎える教団。良いことも悪いことも様々な歴史があった。酸っぱい失敗は、弱さの象徴だ。が、それは強さの欠如ではない(松岡正剛)。これからも行き先知らずの旅が続く。すべては神さまの後押しに委ね、未来へ歩んで行こう。

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20160605
メッセージ 『未知のQひとり旅』 ヨハネによる福音書 3:1~15

お祝いに万歩計をもらった或る牧師は、「一日の中で人と出会うために出かけて行くその歩数は、全体のどれくらいだろう?」と自らに問うた。これは私にとって刺激的な未知の問いかけ、クエスチョンとなった。
 テキストはニコデモとイエスの対話。まったくかみ合わない対話である。
 ニコデモはファリサイ派に属し、最高法院の重鎮議員だった。偉い人であり、資産家でもあった。
 それ故に一目を偲んで夜、主のもとを訪ねたのだ。彼はイエスの働きを認めたが、それは奇跡の業を見たからだった。
 イエスは「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と、はっきり語られた。
 一見、厳しいと思われる対話だが、イエスの指摘は真実で的を得ていた。奇跡とは業ではなく、今まで見えなかったものが見えるようになることだ。
 ニコデモはイエスからの未知の問いかけ、クエスチョンを与えられ、その問いかけに応える者とされた。私たちもそうでありたい。

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20160529
メッセージ 『目にはさやかに見えねども』 ルカによる福音書  24:44~49

 イエスの昇天の出来事を振り返る。それは、地上における働きの終了。とすれば卒業式とも言える出来事だった。しかし、それは同時に、弟子たちの卒業式でもあった。英語で言うグラデュエーションとは、次の段階に進む事を意味する。
多くの場合、卒業と言っても、送る方からは足りなさが目に付いて、不安と心配でいっぱいであろう。弟子たちも同じだった。最後まで主を疑い、とても卒業に値する者ではなかった。
本田哲郎神父は言う。「私たちは隣人(仲間)を必要としている人の隣人(仲間)になってゆく隣人愛の実践によって、人の交わりを通して、日々の暮らしの中で救いを得てゆく」と。
イエスは最後までこの言葉に生きた。そして人を元気にする知らせ(福音)を伝える者として、弟子たち一人一人が自分で考え、選び、決断するよう、姿を消されたのだった。
目には見えなくとも、見えない形の中に込められた愛と思いがある。それだから弟子たちは「大喜び」でエルサレムへ戻った!

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20160522
メッセージ 『ホッと、もっと!』 ローマの信徒への手紙 8:12~17

 決して嘘ではない、本当だけれど、実のところ強弁せねばならないほどの事はない言葉があって、やっかいである。「自分は信仰が足りない」と十分な先輩に言われたら、若い人は返答に窮するだろう。
 パウロの言う、「人を奴隷として再び恐れに陥れる」こととは何か?新しい一歩を踏み出す事を拒んでしまう力である。それは案外、自分自身の内に潜む。
 罪びと意識である。確かにクリスチャンになったからと言って、過去が書き換えられるものではない。一生負わねばならない十字架もあろう。
 だが、聖霊は、次の一歩を踏み出すための力なのだ。罪びと意識に留まって、そこにこもることは神さまの思いと反する。
 井上洋治神父は、「神が愛であれば、神の支配は愛の支配に他ならない」と書いた。パウロは、主と出会い、聖霊を受けた者は、「アッバ」と喜びを持って歩み出すものと語る。
 何も立派なことをなさねばならないのではない。幼子のごとく、ヨチヨチ歩きで良いのだ。もっと求め願って良い。パウロは変えられた。
 信仰は緊張ではなく「ホッと」が基本。ホッと、をもっと!

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20160515
メッセージ 『ニンジンには釣られない』 使徒言行録 2:1~11

 「小人閑居して不善をなす」との言葉がある。昇天日、弟子たちは大喜びでエルサレムに戻った。そして祈りの生活を続けたとルカは記す。
 だが同じルカによる使徒言行録の記事では、どうもその大喜びが持続しなかった事を想像させられる。無理もない。彼らは危険にさらされていたし、約束の聖霊はいつ与えられるか分からなかったからだ。
 弟子たちが小人だった訳ではない。が、恐れと不安のあまり隠れていた場所では、どうしてもすべてが内向きとなり、同じ言葉が使われ、即効性のある解決策が願い求められたろう。内向きの集団はどこもそうだ。
 そんな彼らに遂に聖霊が与えられた。それは「霊の語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」というものだった。
 聖霊は、それぞれを自由にしたのだ。言葉も思いも一人一人違う表現でいい、与えられた命の解放を告げるもの。と同時に、違うからこそ聞きあう思いやりを生み、違う者が共にされる恵みを告げ知らせたのだった。これが教会の始まり。一時のニンジンではない、持続する力。

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20160508
メッセージ 『川は流れてどこどこ行くの』 ヨハネによる福音書 7:32~39

 日本の川とヨルダン川は、相当に違う。喜納昌吉の歌う「花」のイメージはなく、かえって洪水と大河へのあこがれが聖句にすらつながった。
 テキスト最初の一段落では、イエスを逮捕しに来た下役たちのとんちんかんな返答が記録されている。流れに沿わない、すれ違いがあった。学力や知識や思いやりの欠如などもその原因となるだろうが、最大のものは神について・天について思わないことだろう。
 舞台は「水」を象徴とした仮庵祭。大いに賑わっていたが、すべて形骸化し、形ばかりのものとなっていた。そこにも真理の流れへの逆行があった。
 そこでイエスは「渇いている者は誰でも、私の所に来て飲みなさい」と言われたのだ。もちろん、見えない神さまの世界につながるということだ。
 更に「自分を信じるなら、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる」と続けられた。 主につながる時に、小さく貧しい私たち自身が変えられ用いられるのである。
 自分だけ咲くのでなく、主につながり、隣人に届く流れとして用いられたい。

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20160501
メッセージ 『日曜まいど劇場』 ヨハネによる福音書 16:25~33

阪大救命救急センターの塩崎医師を通して、医学会の常識を超えるものがあると教えられる。
本テキストは14章から続く主の訣別説教の最後の部分。言わば結びの言葉である。
一つ前の段落で、「悲しみが喜びに変わる」ことが語られた。直訳すれば、「悲しみが喜びになる」、との話しだ。
今テキストは後代の加筆。主や直弟子を失い、混乱の中にある当時の教会員に、ヨハネを通して再三聞かされたイエスの最後の説教を語る必要があったのだ。それは、誰もが永遠の神の愛の中に生かされているという証し。思い込みや常識は、もっと大きな枠の中にある小さな事。それ故、イエスはご自分も抱えていた恐れや不安を乗り越え出かけられた。これがイエスの世に対する勝利宣言。或る牧師の体験を通しても、実感する。
毎度の常識、マンネリのように思えて毎週の礼拝により繰り返し新たな力を与えられる。私たちも、主の勝利宣言によって立ちたい。どこにもないと思われた救いと愛がここにあるのだ。

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20160424
メッセージ 『今までになかったワクワクを』 ヨハネによる福音書 15:18~27

フランス料理はおいしいが、食事マナーを知らなかったら存外不便である。高知の皿鉢料理のほが気楽で良い。
「迫害予告」の本テキストの背景。ファリサイ派が影響力をふるっていた。庶民は声を上げることができなかったが、それが更にファリサイ派を増長させた。
そこに登場したイエスは、病者たちを大切にすることで、看過しない神さまの愛を表した。それは弟子たちにとって、当初驚異の出来事だったし、自らの解放の業として次第に喜びへと変わった。
それがファリサイ派にとって、存在価値を失わせる脅威となった。「迫害」が起こるのは当然の成り行きである。
しかし主は隠さず、その予想を伝えた。その先に福音の真実があるからだ。出会いの喜びというワクワク(期待感)を捨ててはならない。それ故「恐れるな」と繰り返された。
それは迫害そのものより、真実を見失わせる力に対して語られたもの。分離ではなく、結び合わせる主の励ましに立ちたい。今までにないワクワクを目指して。

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20160417
メッセージ 『笑って、いい供!』 ヨハネによる福音書 21:15~25

 テキストは今週も後代の加筆の21章。食事の後で主は「私を愛しているか」とペトロに3度尋ねた。当初喜びで答えたペトロは、3度目には悲しくなった。疑われていると感じたから。けれど自身を振り返る時、何の反論もできないのだった。
 だが、イエスはペトロを信頼できないから同じ質問を繰り返したのか?そうではない。「愛する」という単語が、最初の二度は違うものが使われた。諦めたのではなく、どうしても伝えたい思いで、三度目はペトロの単語を用いて尋ねられた。イエスは常に誠実であり、正直だった。最も大事な事を伝えるために。
 当時の教会で、第二義のものが力を振るっていた。今もそうである。特定の人間を持ち上げる。制度や規則を絶対化する。私たちはいつもその危険性を抱えている。
主が私たちを愛して下さった、その愛に立って、隣人・他者に接すること。これにのみ従って行きたい。笑って(笑顔で)、いい(主の)供を務めよう。

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20160410
メッセージ 『情けは使徒のためならず』 ヨハネによる福音書 21:1~14

 テキスト21章は後代の加筆。エフェソの教会はペトロの殉教に衝撃を受けた。筆者は何を伝えようとしたのか。
 イエスの十字架刑後、故郷ガリラヤに戻って来たペトロたち。どういう思いが彼らの身を包んでいたのだろう。
 昔取ったきねづかよろしく、漁に出て見たが、結果は散々だった。それは主に従った3年間の収穫が何もなかった空しさに重なる。
 が、再び姿を表されたイエスは、かつてと同様、網を投げる位置を指示し、「すべて」が取れるほどの大漁を与え、更には自ら食卓を整えて、収穫を加えて分かち合われた。
 ここにイエスのなさる食育の姿が描かれている。イエスは絶望で終わらせる方ではなかった。聞いて従う者に与えられる恵みが確かにあった!その情けは使徒を超え、他者へと繋がった。
 この出来事によってペトロたちは本来の力を取り戻したことだろう。そのイエスの自然な呼びかけが、私たちにもかけられている。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と。

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20160403 
メッセージ 『幸せは誰でもサイズフリー』 ヨハネによる福音書 20:19~31

 「いけにえ」や「犠牲」の上に立つ幸せに疑問を抱く。「野球の神さま」という単語にもひっかかる。意地悪に受け取れば、マンガになってしまう。
 ヨハネ福音書は、本来20章がラストである。(21章は後代の加筆)テキストは、ヨハネが具体的に伝えたかった大きな証しだ。
 そこには主の復活を見て、弟子たちが喜んだという記述がある。この「見る」は精神的に見る、心で見るという単語。また「喜ぶ」とは、苦しみがあっても喜ぶという意味。
 次のトマスの出来事。イエスは「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われ、「見ないのに信じる人は、幸いである」と続けられた。心で信じる者への祝福である。
 イソップ寓話「北風と太陽」。力で押す北風ではなく、光を照らす太陽の物語。
 本来、非難されるべき弟子たちに、主は真ん中に立って「平和があるように」と語りかけられた。赦しの愛の深さ、これがヨハネの伝えたかった出来事だ。イエスの愛は暖かい。
 北風の季節が終わり、太陽の季節がやってきた。私たちも上着を脱いで、出かけよう。この幸せは誰の上にもサイズフリーで届けられる。

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  20160327 イースター礼拝
メッセージ 『ミッション・インポッシブル・イースター』 マタイによる福音書 28:1~10

 フランス革命から広がった普通選挙、参政権が与えられたのは日本では1925年(男性)であり、女性に至っては、1945年のこと。長い闘いの末の獲得だが、まだ100年にも満たない歴史。それほど女性の地位は低く保たれて来たのだ。
 聖書の時代は、もっとひどく、女性は男性の付属物でしかない扱いだった。そんな女性たちに、主の復活の出来事が最初に知らされた。そもそも、十字架から埋葬にいたるすべてをも届けたのは、婦人たちだった。
 思えば、主の誕生を最初に知らされたのは羊飼いだった。そして復活は女性たち。このことに、救い主の意味、神さまの思いが如実に示されている。
 色々なことが当たり前となり、モノやマニュアルの中で、感覚が鈍くなっている現代の私たち。
 復活は私たちの目を覚ます出来事。五感を研ぎ澄まし、ありのままの心(野生)で復活を味わいたい。そしてそれを普段の生活に生かしたいと思う。
 ミッション・インポッシブル・イースター。不可能と思われる使命が、しかしいつか実現されて行く。私たちは復活を通してそれを知らされる。

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